「平等」ってなんだ?
たまたま本日は「国際女性デー」ですが(注・このブログは3月8日に別のところで書いたもの)、この前たまたまたドラマで見た「津田梅子を見て思うこと①」「男女平等」以前に「平等」って何なんだろう?
私が小さい頃に習っていた英語の家庭教師が津田塾出身の女性で祖母と同年代なのに、すごく素敵で授業が楽しくて年代差も気にならずとにかく毎週楽しみに通っていて、レッスンがある日は午前と午後と一日中1対1で勉強をしていた。先生は英語の他にもフランス語やドイツ語が堪能で単語の語源などもラテン語などから教えてくれたりして、それが後にアメリカでSATを勉強したりするのも役に立った。
旦那様は引退された東京大学の元教授でお昼時になると、先生の手料理と旦那様の話がとても面白くて、私は当時は考古学者になるのが夢だったから、ありとあらゆる専門書や哲学書を読んで分からないことは先生と先生のご主人に訊いてみたり、勉強の後はピアノも堪能な先生と一緒にアフタヌーンティーの後に連弾をしたり、という生活は私の人生の軸となる過ごし方になったように思う。
祖母の代からの付き合いで母も同じ先生に習っていた。
私は「強制的に共同で何かをさせられる」という学校は大嫌いだったけど、アメリカで2週間でGED(高校卒業資格)を取得できたのは、この津田塾出身の先生に小さい頃に出会えたお陰で、素晴らしい勉強が出来たからのような気がする。
その先生のお陰で私は「津田塾」という名前は特別な響きがあって、津田梅子のドラマを見てみた。
そしたら、津田梅子が生きていた100年後の現代にも全く同じ悩みに、本当によく聞く話が出てきて、まるで日本は(ある意味世界は)どうしてこんなに大昔から進歩していないのだろう?と驚きどころか、吐き気がしてきた。
いやむしろ100年経って高度経済成長期からバブルも経験し、もはや時代が一周したのかもしれない。
それは津田梅子が勤めている学校のお給料が同じ仕事内容なのに外国人と日本人で差があることに不満を漏らすシーンから始まる。
50円以上貰っている外国人教師に対して、10円しか手元に残らない梅子に母が言うのだ。
母「10円だって贅沢じゃないの」
梅子「そういうことじゃないの。同じ仕事をしているのに差があるなんておかしいと言ってるの。元々、仕事の内容に比べて低いお給料だと思ってたけど・・(中略)・・明日学長と話すわ」
(これも本当にそう思う。人種問題ではないが、例えば一つの部署でも派遣、正社員、契約社員などが居て、会議の度に現場での作業を拾い上へ上げ一番時間と労力を使ってるのが派遣や契約で、社員からはろくな意見一つ出てこない、それどころか必要なことすら補っていない、なんていうのも珍しいことでも何でもない。今はどういう時代なのか分かりませんが、少なくとも私が会議で出向く国内の大手企業で未だにそういう風潮があったりします)
母「それは止めなさい」
姉「そんなことをして、相手が気を悪くしたらどうするの?」
梅子「おかしい。自分の思ってることを伝えるのがいけないことみたいじゃない」
(これは私は日本に帰ってきて何百回、何千回同じことを思ってきたことか!!)
母「仕事を頂いて来てくださったお父さんの顔を潰すことになるかもしれないのよ」
梅子「私はどんな相手でも自分の考えをしっかり言うように育てられたのよ」
翌日、梅子は学長に対して、外国人と日本人のお給料格差だけでなく、「教育は慈善事業的なところがありますから」と言う学長側の意見に対し、貧しい生徒が居るのに外国人教師は贅沢な暮らしをしていることにも疑問を呈している。
しかし、この問題は学長のたった一言
「If you don't like it, feel free to quit」
で終わってしまうのだ。
貧富の差は100年前も変わっていないし、学長の「嫌ならどうぞお辞めなさい」は自分達の考えを譲歩しない究極の西洋人のエゴ的な考え方に思う。
この言葉を裏返せば、まさに今起きているロシアとウクライナにも通じるものがある。
我々のいう事を聞けば、侵攻をしない。
学長の考え「我々のいう事を聞けば、仕事を続けても良い」と同じ思考回路ではないだろうか?
この津田梅子のドラマは単に男尊女卑の日本の背景だけでなく、西洋的な「嫌なら辞めなさい」の傲慢な姿勢、世界中で広がる貧富の差がこの数分のシーンに凝縮されているような気がしてならない。
そして、私が昔から本当に本当に疑問でならない「男女平等」とは何だろう?ということをこのドラマでも突き付けられた。
女性は妊娠し子供産む。当たり前だが肉体的に男性とは違うのだ。
今でいう「キャリア志向」の捨松が結婚をし、旦那の力もありやっと今までやりたかった大きな仕事のチャンスであるヨーロッパ行きを掴んだのに、妊娠により日本に残ることを選ぶのだ。
「真の男女平等って一体何なんだ????」
私は金融業界で働いていた時は為替しか興味が無かったので本気で「トレーダー」として35歳で引退するために(当時はウォールストリートの為替トレーダーは35歳引退が、何歳までにどういうキャリアでどういう出世の仕方をすればいいのかキャリア計算を常にしていた。
そうなるとキャリア最前線にいるためには、男性と同等の体力勝負が絶対な上に、女性として毎月毎月ある生理の生理痛との闘いによる体調不良、痛みとの闘いですらかなり相当なロスと負担が大きいのだ。
その後も日本に帰ってきて、ヘッドハンティングや紹介予定派遣などで、大手外資企業数社から声が掛かり、最終面接まで残ったが、私が何故そこに何の魅力も感じないのか、「とても嫌な想い」をしてきたのか、未だに言葉にして誤解なく伝えられるか、自信がないほど、日本で「まともなキャリア」を求めて、「当たり前に女性が働く」ということで、根深い差別を感じずにいられなかった。
これは津田梅子も言う「自分の意見を言うことが何故悪いことなのか?」という大きな大きな壁が私は日本で働く一番のストレスだった。
今は世代交代も進んできて、大分変っているでしょうが。変わっていると信じたいが、私より下の世代になると、今度は「ゆとり教育」の弊害を感じる。私は「ゆとり教育」が一概に悪いとは言わないが、「放置」と「ゆとり教育」を混同してはいけないと思う。「叱る、怒る、教育する」を正しく出来る大人が本当に日本には減ったと思う。
その上、女性として無事に結婚しても子供が生まれたら、どれだけ休まらなければならない?
私は自分の育ってきた環境からしても、教育者として子供を見ていても思う。
子供が生まれたら、絶対学校から帰ってきたときに家に居れる母親になりたい、と。
子供が体調不良ならずっと傍に居てあげられる母親でありたい、と。
私は専業主婦は本当に立派な職業だと思うし、専業主婦として家のことをきちっとやることは外で出世するのと同じくらい本当に心身ともに重労働だと思う。
なのに今の社会は、働く女性には声高々に政府も票稼ぎのスローガンに安っぽく利用するが、具体的な話は殆ど聞いたことがなく、討論会で話されている内容も時間が経てば、どんな内容だったのかさえ思い出せないような薄っぺらいものばかりだ。
そのうえ、専業主婦だって立派な「働く女性」なのに、社会で働いていない女性に対してのケアはあまり聞いたことが無い。
専業主婦だって働く女性なのに、社会で働いてる女性の方が偉いのだろうか?
なのに世界は「働く女性の平等性」ばかりを大声で叫び、専業主婦の声、専業主婦を選んだ人、専業主婦にならざるを得なかった女性の声はあまり聞こえてこない。
テレビでは「アメリカでは・・・海外では・・・北欧では・・・」と日本が海外に比べ劣っているかのような報道もあるが、アメリカで働いていたって女性差別が全くないわけではない。いじめだってあるし、差別だってある。短期間では見えてこなかった問題が5年、7年、10年、10年以上と住んでみて見えてくる、「良いところ」「悪いところ」がある。
だけど、日本に比べたら陰湿な表立っての差別はあまり感じなかった。
だけど、今までアメリカはもちろん、アジア、中東、オーストラリア、ヨーロッパの会社と働いてみて、一番フラットに気持ちよく働けたのはオランダの大手企業との合同で働いたプロジェクトチームだった。
他の国で働いてる人からも「オランダはある意味、良くも悪くも「平等」に扱うところがあるわね。だけど悪い意味でも「平等」に扱われるから、どれだけ頑張っても何も変わらないこともある」と、同じような意見を数人から聞いた。
「男女平等」以前に「平等」って何なんだろう?
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