少子化以前に日本の教育レベルを変えてほしい

昔はお稽古事と言うと、80年代生まれのおきゃんでもかなりこわ~い先生が居たり、友達同士でも「ピアノの先生が怖くて、今日怒られちゃうかも~」なんて話を学校でしたりもした。


おきゃんはむやみに厳しくしたり、体罰なんてのは断固反対だけど、最低限「先生」と「生徒」という上下関係はきちっと教育していくべきだと思う。


例えば、日本文化に関するお稽古事は「とても厳しい」と言うイメージがあっておきゃんも苦手だったけど、大人になって思ったのは、あれは「厳しい」のではなく「緊張感」からくるものだったと気付いた。

先生がぴしっとしていることで出る緊張感。

少しでも「完璧」に近づこうとするための緊張感。


だけど、最近は「楽しく習うことが一番大事」みたいなお教室やお稽古が増えてきていて、そこで見るのは我が子を放ったらかしにして、子供が「先生怖い」と言えば文句を言ってくる親たち。

そういう親に限って子供がお稽古をしている間はスマホに夢中で、子供の態度なんか見てやしない。


おきゃんがいつもそういう光景を見ていて悲しいのは、ゆとり世代を境に「楽に、楽しく、子供を怒らない、叱らない」という風潮が結果「親としての責任を放棄していること」になっていることだ。


そこを辿っていくと、親の不在=共働きが増えた時期とも重なると思う。

子供を見ていて、他の先生たちも同様にうなずくのは、厳しいことだけど「共働きのおうちの子供は問題を抱えている確率がどうしても高くなる」ということだ。

こういう事を書くと今の時代、叩かれるのだろうけど、10年以上生徒さんたちと向き合ってきた私と私の周りの講師業の人達が見てきた事実でもあるし、これはアメリカでも通じるものがあった。


そして、やはり余裕のある家庭のお子さんは勉強も出来て、精神的にも落ち着いているお子さんが多いのも事実である。


アメリカでも日本でも難関校に進む子供の家庭は富裕層が大半で、アメリカの場合その比率は日本よりも極端なものである。


コロナをきっかけにやっと日本も「世界で後進国になった」と認識されるようになったが、その原因の一つは、やはり教育レベルの低下であることはあながち間違った見解ではないと思う。


「忍耐・我慢」が素晴らしいとは思わないが、勉学も習い事も社会に出てからの仕事も「楽して身につくこと」って本当は何もない。


よく「楽しいことだけやれ」という言葉が独り歩きしているが、あれは「努力が努力と思わない程のめり込めるもの」ということで、何かを身に着ける、やり遂げるには「努力」が無いと難しいのが現実だ。


西村博之氏は「努力が良いとは限らない」と言っていて、私もひろゆき氏の意見は賛成だけど、最低限ひろゆき氏は中央大学に入学するだけの能力があり、卒業するだけの必要なことはこなしたし、プログラミングを覚える努力をして「2ch」を開設した。

これは本人からしてみれば「努力」ではないのかもしれないけど、今の子供たちは「勉強をしてそこそこの大学に行くこと」すら、努力をしようとしないように見える。


子供たちにとって耳障りの良いことを言うのは簡単だけど、その真意まできちっと教えてる大人は殆ど居ない。


そしてこの「努力」が教育格差に繋がり、国力にもつながっていく。

当たり前だけど、国を作るのは「人」であり、国が勝手に出来ていくワケではない。


そしてこの子供たちがまた子供たちを産めば、どういう事になっていくか、想像に難くない・・・。


と言うのは、どこの国でも「この親にしてこの子あり・・・」と思ってしまう場面があるからだ。















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