子供が欲しくない人間は進化なのか退化なのか
私は1980年代の昭和生まれだけど、同級生や同年代を見ても私の世代は子持ちと子無しが半々くらいのバランスで居る。
小さい頃からとても疑問だったことがある。
・なぜ、結婚しなければいけないのか?
・なぜ、子供を持つことが女性にとって最終ゴールや人生の一つの「成すべきこと」的な前提で話が進むのか?
それが大学時代に多いに疑問に思ったことは
・人間という生物は、取り合えず「結婚して、子供を産んで」そうやって人間をどんどん増やして、環境破壊をして行きつく先な何処なんだろうか?
・「子孫を残すことが生命」であるならば、「子供が欲しくない」のは「進化」なのか「退化」なのか?
ということだ。
私が30代を迎えたころに、ぽつりぽつりと「子供欲しくないの?」と訊かれる機会は増えた。もちろん、それは興味半分というより、世間話の一つくらいだし、その質問に対して私は嫌悪感を覚えることはあまりない。
たいがい私は冗談半分に「そりゃ貯金が2億円くらいあればね。喜んで好きな男性の子供を産むけど」と普通に答えて日本人からはほぼ全員ドン引きされていた。
これくらいの発言でドン引きするから日本はこんなに落ちぶれているのだと思う。
それがここ数年、日本の貧困さがやっと身に染みて分かってきた日本人の知り合いなどから「昔、あなたが言ってた「そりゃ2億円くらい貯金があればね」っていうセリフが痛感できるようになった」と言われることが増えた。
さすがに2億円は盛りすぎでも、子育てにはこれくらいのお金が必要だという覚悟は無いと今の時代、とてもじゃないが子供を産んで老後も安泰なんていう人生は送れたものじゃない。
現に私の周りを見回しても、家族の仲の良さ、学歴、職歴、は実家の経済力と比例している。
ごくまれに「実家が貧乏で国立しか行けなかったから、死に物狂いで東大へ入った」と言いエリートになった人も居るが、たいていの人間はここまで努力はせずに楽な方に流れる。
現実問題、日本人の子育て見積金額が少なくて私はいつも絶句する。
最近でこそ家事や子育てのアウトソーシングも一般的になりつつあるが、これだけ政府がらみで「働く女性の輝く社会!」なんて笑っちゃうスローガンを掲げておきながら、男性が育児に協力出来る社会なんて絵に描いた餅で、実際は女性が家のことから子供の世話から最悪な場合、家計の補助まで(つまり共働き)まで強いられている。
日本は政治家国民が一丸となって「女性も働け、子供を産め、家族(介護)の面倒を見ろ!家計を助けろ!」と圧力をかけ、「女性は過労死しろ!」と暗に言ってるようにしか私には見えないのだ。
こう活字にして見てみると、それこそ私が生まれる前の昭和時代の風潮にも感じられるが、これが私が感じる率直な日本という国の社会の無言の圧力だ。
私の場合、親がすでに他界し、頼れる身内が居なければ、ベビーシッター、車での移動、子供の教育費、塾、家庭教師、受験にかかる費用、大学費用など見積もれば、とてもじゃないが日本人の金銭感覚では育てられない。
そもそも、私自身が「結婚」というものに拘りも固執も憧れも無いので、「いつでも離婚できる」という自由の選択肢が無ければ、結婚をするつもりもない。
そもそも、結婚というのは古代エジプトの奴隷制度から出来たもので、一夫一婦制についてはキリスト教が作ったものだ。
一時代前のように「離婚したくても経済的自立が出来ずに離婚をとどまる夫婦」というのは「結婚の制度」としてみれば、当たり前なのである。元々は「奴隷制度」から発展した形が「結婚」なのだから。
それに上記の通り親もすでに他界し、頼れる身内が居ないのであれば、私が死んだら私同様に自分の子供も一人で何とか生きていかなければならないのであれば、尚のこと、他国で通用するほどの高学歴を最低限、親の責任として用意するべきだと思っている。
これは「レアなケース」ではなく少子高齢化、親の高齢化と子供の晩婚化が進む日本では無視できない現実だ。
私の周りでも結婚前に両親か片親のどちらかを亡くしているケースは全然珍しくはない。
子供に十分な教育を与えられるだけの環境と経済力を用意できないのであれば、子供は将来、日本の安月給でこき使われ、不安な老後を過ごすことになるか、前科付の刑務所暮らしになるリスクまで考えないと、とてもじゃないが今の日本で子供なんか産めない。
これは飛躍した理論でも何でもなく、これが「現実」という冷酷なものだと思っている。
子供が親の思い通りに生きてくれるとは限らない。
であれば、尚のこと子供には自分が死んだ後も最低限生きていけるだけの、社会で通用する学力と常識は教育させるべきではないだろうか?
その最低限のものを残すにしても、普通の日本人の給料じゃ危ぶまれるほど日本の経済は低迷している。
そして2020年代の今、日本は世界でも後進国にほぼなっている。
そんなアジアの片隅の小国で、少子高齢化により国力、学力は年々低下しているところの大学なんざ、世界からしてみたら見向きもされない存在になりつつある。
日本ではちょうど私の世代が「学歴不要論」など言われて、踊らされた人たちも多いと思うし現に私も「学歴不要論者」だったが私の場合、ちょっと違う。
それは私は「学校が嫌い」なだけで、「学歴さえあれば意外と自由になれる」と見抜いていたからだ。
そして30代の今、それは間違いでなかったと20年前の私に堂々と言える。
例えばの話、中卒で毎日ギャンブルにハマっていたら、前科持ちや底辺スレスレの生活に堕落しやすいが、これがハーバードやケンブリッジ、スタンフォード、プリンストン大学など出てギャンブル漬けの日々を送れば「天才とバカは紙一重」と美談にされるか、「やはり天才は変わっている」となるし、そこまでの能力があればギャンブルなんぞ確率論である程度は勝算取れるようになるのではないかと思う。
ギャンブルで借金まみれになっても、それだけの学歴があれば、いざとなればどこかは拾ってくれる会社もあるだろう。
最悪、そこまでの世界トップレベルの受験を乗り越えたのなら、どうしても食えなくなったら一念発起で起業することなんざ、ハーバードを卒業するより楽に感じられるかもしれない。
世の中はバカが居てくれるお陰で成り立つ商売が一定数ある。
だけど中卒、ギャンブル漬けで借金まみれになって、せっかく労働意欲が湧いたとしても、雇ってくれる会社はほぼ無いし、世界が不況になればなるほど、雇われにくくなるのは目に見えている。
自分の子供がそこまでどん底に落ちぶれる覚悟を持ってまで、子供を産みたいか?と問われれば、答えは「NO」である。
早熟かもしれないが、中学生辺りでこのことに気づき、それからずっと思っていたのは、そこまでして、自分の遺伝子を残したいと思ったことは無い。
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